「昭和50年くらいまでかな、とにかく売れたという時代は。だんだんとつぶれっとこが増えてきた。大きな工場が出来たり、海外製品が来たりしたので。その時に、売れるにはどうしたらいいか、柳先生に尋ねに行きました」(大峽さん)
昭和55年。大峽さんのお家は米沢から福島に移り住むことになります。その理由は二つ。米沢よりは東京に近く、新幹線で日帰りできる場所がいいということ。もうひとつは、柳先生に会いに行くため。柳先生とは、柳悦孝氏(よしたか 1911-2003)のこと。「民藝」という言葉を提唱し、民芸運動を牽引した柳宗悦の甥であり、芹澤銈介氏と一緒に織物の道を志した人物で、1949年より女子美術大学にて教鞭を執っていたのです。
「当時は柳(悦孝)先生から何度も何度もご指導いただき、サンプルの布を織っては持ちかえり、の繰り返しでした」(大峽さん)
クオリティの高い織物を作ることができるのか、試行錯誤をしながら、何度も試作を繰り返し、悦孝氏の元を訪れ教えを請うて、織物の品質向上に努めていました。織り機を使ってさまざまな技法から生まれたのが、「刺子織り」だったようです。やっと、刺子織の話にたどり着きました。「刺子織り」というのは、平織りの布地を織っていく段階で、経(たて)糸または緯(よこ)糸を浮かせて刺子のような模様を表した織物。手で刺す刺子のような風合いを生かしつつも、機械織りをすることで複雑な柄をたくさん織ることができるそうです。しかし、この機械自体を扱う技術を持った人がだんだんと少なくなり、同じことをできる人は大峽さんを置いて他にいないとも言われています。では、実際の現場を見てみましょう。
tenpの布が織られていく様子。
ガッチャコン、ガッチャコン、ガッチャコン……。
工場の中はけたたましい音! 大きな機械がせわしなく上下に動いています。機械の端っこからは、オレンジ×イエローの布がチャッッッチャッッと少しずつ出てきているではありませんか。機械の中でどういうことが行われているのか、見ているだけではさっぱりわかりません……。
大峽さんに解説をしてもらいました。
これが紋紙です。たくさんの経糸を上下のどちらかにセットし、その間に複数の緯糸を入れ込んでいく。すると経糸の上と下に絡められるように緯糸が織り込まれ、それが柄のひとつの目となります。その上下の信号は「紋紙(もんがみ)」と言われるボール紙にプログラムされています。穴が開いているか否かという情報(オルゴールの紙のようなものです)で複雑な柄が綴られていきます。紋紙1枚がひとつの目の情報を表すので、柄が大きく複雑であればあるほど紋紙の枚数が必要になります。多くても普段は480枚くらいで織るそうですが、今回はなんと912枚もの紋紙を使ったそう。
織り機の目の部分を真剣に見ている大峽さん。素人目にはわからない布の細部をチェックしていきます。
製作の工程としては、まずは福田さんが手描きで柄を起こします。その後に描いた柄を紋紙をつくる専門家のところで、1枚1枚紋紙にしていきます。そして、次は「仕掛け屋」さんの登場。ジャカードの機械に経糸と緯糸を仕掛ける人です。今回の仕様では、経糸が2460本、緯糸が306本。これを機械にセットして、ようやく準備が完了。でもまだまだこれだけでは布は織り上がりません。その後、大峽さんが機械の強さやスピードを何度も調整し、布の目が美しく規則的に出る絶妙なバランスを探ります。現在で1メートル織るのに約1時間。「速度を上げると織り上がるのは早くなるが、風合いが悪くなるんだよな」と大峽さん。そこは、長年の勘と経験で最高のバランスを見つけていきます。