tenp stories vol.01

イラストレーターの福田利之さんと一緒に、
tenpの布が作られる現場を訪問する「tenp stories」。
第1回は、福島で刺子織の布をつくっている、大峽健市さんの仕事場をお訪ねしました。

vol.01 大峽健市さんの仕事場 / 刺子織(三和織物)


糸が織られる様子、紋紙からの信号で経糸が上下にわけられ、その間をするりと緯糸が抜けていきます。

まずは「刺子」の紹介からいたしましょう。「刺子」とは、布地に図柄を刺繍して縫い込む手芸の技法のひとつ。布の目に沿って、一針一針規則的に刺していき、途方もない時間をかけて美しい幾何学模様ができ上がります。刺子はもともと、東北地方に伝わる農民の知恵から始まったもの。厳しい風土の中で農民たちが着ていたのは、麻の野良着。江戸元禄になると木綿の糸が手に入るようにはなったのですが非常に高価で贅沢品。そこで、目が粗く風を通す麻の布の傷んだ部分を補強したり、保温のために糸を刺したのです。刺子をするのは、女の仕事でした。それは単なる生活のための仕事というだけではなく、柄を考えながら手を動かしものづくりに没頭する長い冬の楽しみのひとつでもあったと聞きます。また地方によっては、母親が丹精込めて刺し子をした野良着を娘に贈ったという話も。

有名な刺子の技法には津軽の「こぎん刺し」、東北南部の「菱刺し」、庄内地方の「庄内刺子」の3つがあります。tenpが今回一緒にテキスタイルづくりをした「三和織物」の大峽健市さんが手がけているのは、刺子と言っても、手で一針一針刺すものとはちょっと違います。機械を使って布に織り込んでいく「刺子織」という技法です。

大峽さんの家業は米沢で始まりました。米沢は織物の産地として有名な場所。江戸時代の始めより、からむし(苧麻)が栽培されており、からむしから取り出した繊維「青苧(あおそ)」を用いた手織物が各地で行われていました。これが産業として発達したのは、米沢藩の上杉鷹山の旗振りによるもの。1776(安永5)年に越後から縮師を迎え、縮役場を設け地元の女子に織りの技術を習得させたのです。これが、米沢機業の始まりと言われています。明治期には力織機の改良開発が行われ、海外にもたくさんの織物が輸出されるようなり、その後大正時代にはさらなる近代化が進み、袴地の生産では全国シェア1位を誇ったそうです。明治以降着物から洋装への転換が少しずつ進み、第二次大戦後には、一般の人でもほぼみんなが洋装をまとうようになります。産地であった米沢では、合成繊維織物の開発に伴って化繊を含めあらゆる糸に対応した製品をつくる技術を育んでいったそうです。

大峽さんの家でも、技術発展の流れを汲んで昭和23年くらいから機械を導入し、米沢織の産地のひとりとして家業を営んでいました。時代は戦後を迎えると世の中は高度成長の波がやってきます。とにかく作ればなんでも売れるという好景気に支えられ、最盛期は米沢だけで400軒以上の工場がひっきりなしに稼働していたそうです。しかし、そんなふうに喜ぶのも束の間、産業はだんだんと陰りを見せてきました。